明治31(1898)年、陸地測量部が編纂した2万分の1地形図の続き。
市内南部に目を遣る。寺岡村(現長居西)、我孫子村、堀村(現長居東)、遠里小野村などが散在。大阪鉄道(現近鉄南大阪線)も阪和鉄道(現JR阪和線)もまだ描かれてはいない。阿部野橋・道明寺間に列車が走るのは1923年。天王寺・鳳間は、更に遅れて1929年の開通である。阿倍野区役所HPによると、明治初期の該当区域にある集落はたったの2ヵ所。阿倍野村に63戸、猿山新田(現在の西田辺)に至っては28戸しかない。当時の規模は、北田辺村や南田辺村にも明らかに劣る。火葬場(現市営南霊園)を除けば、阿倍野には明治31年を迎えてもまだ田畑とため池しか見当たらない。10万人が密集する現在からは想像できないくらい寂しい場所だったことになる。
万単位
「身を切り」十億
無駄遣い
それでは、本日のシャッフルクイズ。
『市会、先だわ(シカイサキダワ)』
今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:厄除け。