最も古い分水路建設計画は、享保年間(1716〜1736)に始まる。幕府に願い出たのは、寺泊の豪商、本間屋数右衛門。もっとも、当時は新田開発が目的だったという。廻船問屋を営む数右衛門は、船頭から得られる各地の情報に明るかったと想像される。1704(元禄17)年にわずか8ヵ月で完成した、大和川付け替え工事(幅180メートル、長さ14キロ)も耳に入っていたか。残念ながら、「大河津堀割」と呼ばれたこの計画に幕府の許可は下りない。距離は10キロと短め。大和川付け替え工事の2/3ほどである。が、海岸近くに分布する丘陵地が大問題。標高百メートルを開削しなければならない。堤防を築くだけで済んだ、大和川付け替えとは大違い。人力によるしかない難工事と莫大な費用とが見込まれた。同様の嘆願が繰り返される度に、幕府は却下。建設機械などない時代である。民意が反映されなかったとしても、幕府を非難することはできない。
着こなしは
衣服に合わせる
小原台
それでは、本日のシャッフルクイズ。
『お題みな幼稚だ(オダイミナヨウチダ)』
今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:甘い感傷で観客の涙を誘う。