まちゃつの徒然日記

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美々津

直訳なら「とても美しい港」となるか。神武天皇東征伝説の地。江戸時代には高鍋藩の交易港となり、材木や炭の集散地として繁栄。商家が立ち並ぶ様子は「美々津千軒」ともてはやされたという。明治と改まり一時は美々津県の県庁所在地となるものの、県庁はすぐに現在の宮崎市に移転してしまう。衰退の始まり。農業を振興しようにも、港から段丘崖にかけて中町(商家)、上町(旧士族居住区)と広がる町並みに耕地はほとんどない。町の南西部に百町原(ひゃくちょうばる)という広大な土地があるにはあった。ただ、段丘面上にあるため灌漑設備がない。岳父のことばを借りれば「働くに所なく、耕すに土地がない」状態に陥る。日露戦争前の明治30年代、百町原に用水路を新設し荒れ地を水田化する構想を持つ青年がいた。名を荻原俵三郎(1877年〜1973年)という。日露戦争後に復員すると、石並川上流に位置する田の原地区から水を引く新田開発について熱心に語り始める。半農半漁の寒村に一大農地を拓くというのである。だが、新田開発には輻輳する利害関係の調整が必須。ちょっと考えてみただけでも、水利権者の反発を抑え、用水路ルートを決め、土地供出者へ補償し、建設費を公平に負担するなどの問題を解決せねばならない。話し合いは難航。結局、住民を説き伏せ、更に県と国を動かし、明治45年に百町原開田事業を開始するまでに8年を要したという。大正5(1916)年に用水路は完成。現在、宮崎平野最北端、R10沿いの百町原バス停近辺に広がる田畑は、明治以前には見られなかった光景である。2000年、用水路脇に胸像が落成。静かに百町原を見晴るかす荻原俵三郎は、トフコさんの曾祖父なのである。


   新聞の拙き文章指摘して
   久方ぶりの四桁閲覧


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『不眠かい?歩け(フミンカイアルケ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:少量少産の化学製品。