まちゃつの徒然日記

まちゃつのブログです。はてなダイアリーから引っ越してきました。

府立弥生文化博物館(3)

7/5付日記の続き。松山城の南を北東から南西に流れる川がある。石手川といい、西流する重信川松山中央公園辺りで合流し伊予灘に注ぐ。名前の由来は、728(神亀5)年建立の石手寺か。企画展に展示されている絵はがきを遺した加藤恒忠は、石手川に愛着があったのだろう。石手川の「石」と「手」とを入れ替えた「拓川」を雅号としている。第2展示室の見学はそこそこに、本命の第3展示室に入る。展示品を傷めぬよう照明を暗めにしている旨の掲示。最初に目に付いたのは、拓川が洋行の際に使用したトランク。くたびれてはいるが、茶色で頑丈そうな作り。展示された絵はがきは、恐らく200枚以上。歳月を経てセピアカラー化したものもある。植物の枝やつるを思わせるデザイン、アール・ヌーヴォー様式の年賀状がひときわ目を引く。手前から左奥へハスの葉を並べて遠近感を表し、右側に若い女性の横顔を描く。長い髪や髪飾りがつるのようにデザインされている。日付は明治39(1906)年元日。在香港領事、野間政一からのもの。ロンドン滞在中の漱石からの絵はがきには、イングランド銀行を背景に行き交う人々や馬車が描かれている。秋山好古からの年賀状の署名は、「信好」。身近な人物には、幼名の「信三郎」と諱の「好古」とを合わせた「信好」を使用したのであろう。差出人は、西園寺公望原敬明石元二郎土井晩翠陸羯南正岡子規ら、政財界人、軍人、文化人と幅広い。交際範囲の広さを伝える報道に接してはいたが、歴史上の人物の肉筆を目の当たりにすると感慨はひとしお。久方ぶりに目の保養をした。


   南港に司令部置いてはいかんぜよ
   助かるはずの府民を見捨てる


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『炊いて食うと伏す(タイテクウトフス)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:様々なものが数多くあること。