まちゃつの徒然日記

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岐阜事件

ちょうど130年前(1882年)の本日夕刻、岐阜市で発生。演説を終えたばかりの自由党党首、板垣退助が短刀を持った男に襲われる。退助は元土佐藩士故、武術の心得はある。当て身で応戦するが、左右の手、胸などに傷を負った。取り押さえられた男は、東海市の小学校教員A原(27)。保守的な考えの持ち主で、フランス流の急進的な改革に例えられる自由党の主張には反感を持っていたらしい。岐阜重罪裁判所で無期懲役の判決を受け、北海道の空知(そらち)集治監で服役している。集治監は一種の刑務所であるが、似て非。囚人は、現在とは比較にならぬ劣悪な環境で強制労働を課される。道路建設や炭坑での作業中に落命するのは茶飯事だったらしい。空知集治監(札幌から北東へ約50キロに位置)は、多い時には3200名を収容。樺戸(かばと)集治監収容者と共に上川道路(現R12)建設に当たる。不平士族による反乱や自由党員らの起こす事件もあり、当初の収監者には政治犯が目立つ。例えば、後に衆議院議長・農商務大臣を務めた河野広中。岐阜事件と同じ明治15(1882)年に発生した福島事件の際には、内乱罪で逮捕され投獄の憂き目に会う。愛国者設立に関わった河野が入監し、板垣は政治犯の恩赦に奔走。自らを襲撃したA原の特赦を明治天皇に願い出てもいる。結局、大日本帝国憲法発布による恩赦でA原や河野が出獄するのは、1889年のこと。河野の仲介でA原が謝罪に訪れると、「国家観念より起こりたるものなれば、その心事は咎むきにあらず」と述べ、板垣はA原を許したという。自分を殺そうとした人物の特赦を願い出るなど、大人物の懐の広さには計り知れないところがある。


今度会ったら、答えを言ってね。


『ツイン、こうて(ツインコウテ)』


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ヒント:万緑叢中…。