まちゃつの徒然日記

まちゃつのブログです。はてなダイアリーから引っ越してきました。

エマーソン(2)

24歳のクリスマス、当時16歳のエレン・ルイーザ・タッカーと出会い、2年後に結婚。だが、エレンは肺結核(“tuberculosis”略して“TB”。“TV”と発音を間違えないように、とペーダ先生が強調していらっしゃった)のため20歳で亡くなる。Roxbury(ペーダ先生が子ども時代を過ごした地区!)にある墓地への訪問を繰り返す。失意の余り、棺を開けてしまうこともあったらしい。ハーバードを首席で卒業した2歳下のエドワードは29歳で、将来を嘱望されていた5歳下のチャールズも28歳で共に肺結核のため逝去。この頃の結核は、死の病。結核菌に対する特効薬(ストレプトマイシン)が、セルマン・ワクスマンによって開発されるのは1943年。あと、112年の歳月を待たねばならない。1829年1/11、牧師に任命される。エマーソン25歳、初任給は、年収で1200ドル。半年後に1400ドルとなっている。司祭の仕事も任されていたからか。多忙を極める。妻の容態が刻々と悪化する中でのキリストを賛美する生活は、彼を辞職へと追い込んでしまう。1832年のこと。妻の死後、マルタを手始めにヨーロッパを旅行。イタリア、スウェーデン、フランス、イギリスに滞在。ローマで会ったジョン・スチュアート・ミル帰納法を完成。功利主義の社会倫理説を説く)からトーマス・カーライル(歴史家、評論家)を紹介される。エマーソンが亡くなる前年にカーライルが亡くなっているが、カーライルの死まで2人の文通は続く。ウィリアム・ワーズワース(宮内官詩人)、サムエル・コールリッジ(詩人、批評家、ワーズワースとの共著あり)らと交友。1833年帰国。通算1500回に及ぶことになる、講演(説教)の第1回を始めている。タイトルは『ボストンに於ける自然の物語の享有』。相続を巡り妻の実家、タッカー家を相手に訴訟を起こし、2万3万ドルを受領。1835年、リディア・ジャクソンと結婚。リディアは、亡きエレンに対するエマーソンの思慕の情をよく理解していたらしい。4人の子ども、ワルドー、エレン、エディス、エドワードを授かっているが、エレンという名はリディアの発案だからだ。エマーソンは、大学卒業時は貧しかったものの、リディアと結婚する頃はかなり裕福になっている。1834年は、不動産からの収入だけで1200ドルを得ている。歴史上の人物は、当然ながら歴史上の人物と交わりがある訳だねぇ。エマーソンの格言から。「恐怖は常に無知から生じる」「知性に富んだ人間は、決して弁解しない」「教育の秘訣は、生徒を尊敬することにある」「氷上を滑るにはスピードを出す方が安全だ」「人間は皆、1人で世の中を歩いている。我々が望むような友達は、夢であり寓話である」一言一言が心に染みるねぇ。


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『武士、正直か(ブシショウジキカ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:東京なら兜町にある。