まちゃつの徒然日記

まちゃつのブログです。はてなダイアリーから引っ越してきました。

三島由紀夫

1925(大正14)年1月14日、東京の四谷生まれ。本名は平岡公威(ひらおか・きみたけ)。父親は農林省に勤務。3歳の時、妹の美津子が誕生。5歳の時、弟の千之が誕生。1931(昭和6)年、学習院入学。9月に満州事変。初等科の機関誌「小ざくら」に短歌、俳句が毎号掲載される。1937(昭和12)年、中等科に進学。7月に日中戦争が始まる。渋谷区に転居。初めての小説「酸模(すかんぽう)」「座禅物語」、詩、短歌、俳句を輔仁会(ほじんかい)雑誌に発表。2年の時、祖母に連れられ、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」、能「三輪」を観劇。歌舞伎と能に夢中になる。祖母、平岡夏子が62歳で死去。3年時に終生の恩師、清水文雄が国文法と作文を担当。戯曲「路程」などの外5編を執筆。4年時に文芸部委員に選ばれる。「仔熊の話」「でんしゃ」を書き上げ1編を起草、2編を執筆し中断。5年時、「花ざかりの森」を清水文雄に見せ、批評を請う。「真白な椅子」の外6編を完成、清水文雄に見せようとする。太平洋戦争始まる。1942(昭和17)年、学習院高等科に進学。1944年9月に首席で卒業するまでに「青垣山の物語」の外3編を執筆。総代となり、天皇が臨席する中、宮内省から恩賜の銀時計、ドイツ大使からドイツ語の小説3冊、華族会館から図書数冊を受け取る。10月、学習院からの推薦で東京帝国大学法学部に入学。20歳で終戦。8月、蓮田善明がマレー半島で連隊長を射殺してピストル自殺。三島由紀夫ペンネームで書かれた初の作品「花ざかりの森」を絶賛した人物であった。10月、妹の美津子が腸チフスに罹り17歳で死去。

栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」という慣用句がある。「発芽の頃から香気を放つ栴檀のように、大成する人は子どもの時から並はずれている」という意味。泉源の如く溢れる三島の創作意欲は、6歳で既に発揮されている。


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『ウニ、どんじり(ウニドンジリ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:風を切って爽快。