まちゃつの徒然日記

まちゃつのブログです。はてなダイアリーから引っ越してきました。

鉄道の日

今日は鉄道の日。4歳の夏、初めて列車に乗ったのを思い出す。前月に叔父のダンプカーに乗車して宮崎に来ていたまちゃつを両親が迎えに来て、列車で熊本まで帰ることになった。1956年8月のこと。乗車したのは、日豊本線南宮崎駅から鹿児島本線玉名駅まで。50年代のこと故、SLが牽引する鈍行である。吉松駅を過ぎると勾配が急なため、補機がつき重連となる。煙が大量発生。トンネルもやたら多い。たった1人でも窓を閉めるタイミングを誤ると、客車内は煙だらけ、顔はススだらけ。当時、ホームには顔についたススを落とす洗面兼水飲み場が並んでいた。峠に差しかかってスピードが落ちると、亡母が妙なことを言い始めた。「『M明の体が重い重い、重い重い』と言って機関車が走っている」と繰り返すのである。まちゃつは、機関車に済まないと思って、中腰になったり立ち上がったりした。もちろんそんなことをしても、スピードは上がらない。理屈には合わないが、からかい半分で子どもに言ったのだろうと考えていた。だが、上り坂のノロノロ運転は、列車の停止を招きかねない。最悪の場合、列車は退行する。そういう恐怖感を亡母が抱いていた可能性もあるかなぁ、と最近思うようになった。終戦直後の1945年8月22日、同じ場所(吉松駅と真幸駅の間にある山神第二トンネル内)でD51の重連が退行し、大勢の乗客が死亡する事故があったことを知ったからである。質の悪い石炭でパワーが出ないところへ、客車5両の外に無蓋車8両を増結していたため、トンネル内で停止。天井も壁もない無蓋車は真っ黒な煙とススにさらされる。単線区間故、トンネル内は狭い。暗闇の中、排煙から逃れようとした乗客は、軌道内を後方に移動。同じ頃、黒煙から逃れようと、本機の機関士がブレーキを緩めたため、バックしてきた列車に歩行中の53名の乗客が次々に轢かれた。4歳のまちゃつが現場を通過したのは、事故から11年後のこと。生々しい記憶が、事故を知る人々の脳裏をかすめなかったとは言い切れない。無蓋車に乗っていたのは、鹿屋航空隊帰りの復員兵だったという。


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『ミニ過疎(ミニカソ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:美味しい?