まちゃつの徒然日記

まちゃつのブログです。はてなダイアリーから引っ越してきました。

恩師、Pehda先生(231)

ペーダ先生の論文『エミリー・ディキンソン』が大阪学芸大学(現大教大)の論文集に掲載されるのが1954(昭和29)年2月。どんなに遅くても1953年春には、大教大平野で教鞭を執っていらしたことになる。先生ご自身からは、終戦直後から滞在している旨の発言があったものの、神女や学芸大教員以前のことについては残念ながら不詳。木造2階建てで府立H高校が開校するのが1955(昭和30)年のこと。当時でも鉄筋コンクリート校舎が当たり前。そうはならなかったのは、通常予算の1/2で建設されたから。高校進学率の上昇に加えて団塊の世代(1学年約270万人!)が受験期を迎えるまで数年の猶予しかない。府も対応に大わらわだったか。ペーダ先生は、自分の教え子がたくさんH高校に通うことになったとおっしゃっていたから、恐らく中学生の授業も担当なさっていたのであろう。附属高校平野校舎が開校するのは1972(昭和47)年故、17年後のことである。昭和20年代や30年代、国鉄の駅に“W.C.”の表示を見つければ小学生でも「便所」だと知っている。“water closet”の略だというのを得意気に語る奴もいた。トイレ文化が世界一となった今日の日本からすると信じがたいことだが、当時の“W.C.”は一部の例外を除いてとても臭い。汲み取り式だから当然である。“water closet”「水洗トイレ」の表示を信じて駆け込んだ米人は、さぞ憤慨したり呆れたりしたことであろう。今なら、十分に理解できる。何度も“Japanese-style toilets are for barbarians.”「和式トイレは野蛮人用」と聞かされた。あれは、洋式水洗と比較して和式水洗をけなしていらっしゃったのではなく、汲み取り式を非難なさっていたのだろうなぁと今頃思い直しているまちゃつである。


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『核、知れて(カクシレテ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:気まずさを隠そうとする態度。