まちゃつの徒然日記

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児島惟謙

1837年3/7〜1908年7/1。宇和島藩士、金子惟彬の次男として誕生。里子に出されたり、造り酒屋で奉公したりの幼少期を過ごす。28歳の時に長崎に出て、五代友厚坂本龍馬らと知り合う。30歳で脱藩し京都で勤王派として活動。明治元年、31歳で役人となり、新潟県御用掛を務める。33歳で司法省に入省。46歳で大阪控訴院長。54歳で大審院長になると同時に大津事件発生。5月11日、琵琶湖遊覧から京都へ戻る途中のロシア皇太子が大津で巡査・津田三蔵に切られ負傷。津田は、皇太子が日本国内をスパイしようとしていると思いこんでいたらしい。松方正義内閣は、ロシアとの関係悪化を憂慮。大逆罪(天皇、皇后、皇太子などに対し危害を加える罪。実行する前の準備段階であっても死刑であった。1947年廃止)で津田を死刑にしようとする。大審院長・児島惟謙は、大逆罪を適用するのは罪刑法定主義に照らして無理があると判断し政府に抵抗。津田を無期徒刑とし司法権の独立を守った。領事裁判権の撤廃に成功するのは、外相・陸奥宗光に依る1894年の日英通商航海条約締結まで待たねばならない。が、児島惟謙の判決が欧州諸国首脳の日本観に影響しなかったとは言い切れない。無期徒刑となった津田は結局、大津事件を起こした4ヵ月後の9月29日、肺炎のため死亡している。現在で言えば最高裁長官に相当する児島惟謙は、正義の人だったのだろう。津田三蔵が、やはり政府によって始末された疑念を払拭することは出来ないが…。K西大学創立にも関わる。同大学キャンパス内に胸像有り。


それでは、本日のシャッフルクイズ。


『雌牛というよ(メウシトイウヨ)』


今度会ったら、答えを言ってね。
ヒント:空港、野球場にある。