まちゃつの徒然日記

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大和川付け換え

笠置山脈に発源する旧大和川は、柏原村で石川と合流。元禄の頃までは、北西流し久宝寺川と玉串川とに分かれて淀川に合流していた。概ね現在のJR大和路線及び近鉄大阪線のルートをイメージすれば、当たらずとも遠からず。天井川故、石高表示で15万石に相当する流域が日々洪水の危険にさらされていた。何度も付け換えの訴状が出されたらしく、1676(延宝4)年には新ルートの候補に挙げられている村々から「大和川を付け換えないで」という趣旨の訴状が出されている。現代で言えば、反対運動か。「大和川付け換え」を訴える1687(貞享4)年の訴状に対し、幕府は1703(元禄16)年に工事の実施を決定。赤穂義士の討ち入りがあった頃である。公儀普請(幕府の費用負担)で行うこととなった。1704(元禄17)年、川下にある堺の海側から工事を開始。幅180メートル、長さ14キロメートルに及ぶ大工事の始まりである。工事は川底を掘り下げるのではなく、高さ5メートルの堤防を盛土で築いたり高台を切り崩したりする方法で進められる。工事期間は3年を予定していたが、わずか225日で完成。工事区間を分担制にしたため、大名間で工事の進捗を競う状態が出現したらしい。岸和田の岡部美濃守、三田の九鬼大和守、明石の松平左衛佐、高取の植村左衛門佐、丹波の織田山城守、幕府からは、大久保甚兵衛、伏見主水らが工事に参加したという。1日に1万人が働き、7万1500両を投入。新大和川となる土地や家屋270ヘクタールが消失。替わりに1050ヘクタールの新田が誕生。地代3万7000両は工事代金の補填に充てられたという。被害者も出たであろうが、マクロで見れば良いことなのだろう。どんな事業にも反対者は付きものである。


今度会ったら、答えを言ってね。


『野獣父母(ヤジュウチチハハ)』


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ヒント:♪夏も近づく…。